15分文学

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よしもとばななの小説についての読書感想文

んなことあるかい、というのが読後の感想。沖縄に来たからといってすべてが救いの方向を示すというのは、いささか過剰なように思う。それはわたしが長らく沖縄に住んでいたからであって、自身に小説のような経験がなかったから共感できない、ということが感想の根底にある。

しかしながら、それは別として、よしもとばななの描写は素晴らしい。特に、心象を文章にすることに関しては抜群だと思う。共感できる一節がたくさんある。読後真っ先に浮かぶのは、『ちんぬくじゅうしぃ』内、父に「そんなふうに祈ったことがあるか」と聞いてほしかった母と、その質問の答えを一人で話し始める悲しさ。本を貸してくれたSは、『なんくるない』の「時は満ちた」という表現に対してそのように話していた。

共感できないストーリーにも共感できる心象の描写があるということは、単純に興味深い。それは、同じ経験をしていない人同士がわかり合えるということにも近いように思う。わたしは、小説で見せるよしもとばななの行動、経験に対して共感することはない。けれど、彼女の喜び、悲しみ、そのような心象に対しては、どこまでも共感することができる。そのことを喜ばしく思う。

現実の人間関係においてもそうであればいい。

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テーマ「よしもとばななの小説についての読書感想文」

2016.7

ある空間についてのテキスト

トーブの熱を感じる。それは灯油を入れるタイプの古いストーブで、その傍で、わたしは体育座りで寄り添うように暖をとっている。こっち来なよ、とは言われない。わたしの斜め後ろにいるあの男からは。視線すら感じない。ただ、ストーブの上に置かれたやかんが、かたかたと音を立てている。

わたしは意識を集中させる。そこにあるすべての物事に。窓の外の明るい日差し、テーブルの上の焼き菓子、床の板、外を歩く人の声。しかしそれらは集中すべきものではない。わたしが本当に集中したいのは、斜め後ろのあの男。けれど、それには集中できずにいる。

もっと近くに行きたいけれど、行けない、行かない、行ったらすべてが終わりそうで。どうして終わると思うんだろう。どうして行かないのだろう。時計の針が時を刻む音が聞こえる気がしたが、それは気のせいだろう、だってここには時計がないのだから。けれど、時間が過ぎていく。それだけはわかる。あと数分でこの時間は終わるんだ、それだけはわかっているのに。

ふいに来客がある。客人は空間に新たな空気をもたらし、そして斜め後ろの男は「斜め後ろ」の男ではなくなった。ただわたしだけ、取り残される。わたしだけ、わたしの思いだけ、その場に残る。それでよかったんだと安堵にも似たため息をつく。ねえ、もう少しこの時間が続いたら言ってくれた?こっち来なよ、って。喉元まで出たその思いは、ただ喉元で消えていく。それは好きなのではなくただの執着なのだと、わたしはわたしに言い聞かせる。その言い聞かせが何の役にも立たないものだとわかってはいても。

さあ、そろそろ準備をしようか。その男はそう言ったけれど、それが何のことだか、わたしは考えられない。準備…準備をしなければならないんだ。何の準備か思い出せないまま、わたしはのらりくらりと立ち上がった。

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テーマ失念

2015春?

食事についてのテキスト

その食堂には、メニューというものがなかった。木板の床に直置きされた黒板には、「和食」「洋食」とだけ書かれてある。そこへ行くのは初めてのことだったが、その大雑把なもてなしには親近感を覚えた。

 「じゃあ和食で」と、わたしはつぶやくように伝えた。特別に和食が食べたかったわけではないが、この店が作る「和食」というものに興味があった。ほどなくして、盆に乗せられた「和食」が目の前に置かれる。それは、鯖の味噌煮と白ご飯、たくあん、鰹節に味噌を溶いた「かちゅーゆ」といったその地方の家庭料理の、しごくシンプルな定食だった。

白ご飯に箸を伸ばす。なんのことはない、白いご飯。しかしよく見れば焦げ目が香ばしく、丁寧に炊かれたことが見てとれる。咀嚼音が必要以上に響く気がするが、それはわたしの思い過ごしかもしれない。店内には音楽が流れていたはずだ。けれど、わたしはただ米を噛む音しか聞こえなかった。

「とても、おいしいです」

ただの一言、つぶやくように言葉にすると、店主と思わしき女性はにこりと微笑みを返す。コミュニケーションがとれたように感じ、わたしは満足する。伝えることに意味があるのだろうと感じる。たくさんの人と会うのに、たくさんの人と話すのに、会話というものを久方ぶりにした気になるのはなぜだろう。

台所の奥からは、醤油の香りが漂ってくる。椅子の上で体をよじると、ギイと木板が鳴る。わたしは咀嚼する。ただ目の前にある食事を全身で味わおうとする。

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テーマ失念

2014冬

拒否

思えば、たくさんのことを受け入れ続けてきた。桜が舞えばその美しさを讃え、人の手料理をおいしそうに頬張り、本を読んでは涙を流した。そして今、テーブルに出されたクリームシチューを白飯を前にして、気付いてしまう。いったい、そのどこまでが本心だったのだろうと。

むくりと生まれた疑念は、浴室を腐敗させる黒カビのように増殖していく。ああ、そうだ。わたしは人の手垢が付いた料理など、微塵も好きではなかったのだ。

そもそも、桜が美しいというのも幻想ではないか。桜の木の枝にはいつだって毛虫が這っていたし、木の下には死体が埋まっているように感じられて気味が悪い。それでは、本を読み、流した涙の正体は。それは感動の涙ではなく、もしや、作者への嫉妬や羨望からくるものではなかったか。

むぎゅむぎゅと咀嚼音が響く。金属製のスプーンがざらついた陶器のボウルをすべる音が耳障りだ。潮時とは、かくも唐突にやってくるものか。しかし、そう思いながらも次に移すべき行動すらわからずに固まっている自分の姿は、なんと滑稽なことだろう。

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テーマ「拒否」

2017.4.17