15分文学

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ピアノ

家からそう遠くないところに、一軒の古い喫茶店がある。その喫茶店から、夜になるとピアノの音が聞こえてくることに気がついたのは、つい数日前のことだった。そして今日も。エリック・サティジムノペディ第1番。あまりにも有名なその曲を、わたしも何度か弾いたことがあった。かつて音大生だった時代があった。音楽の世界で食べていきたいと夢見、その夢は叶うものと信じて疑わなかった。しかし、それは昔の話だ。あまりにも昔の。

足音を立てぬよう気を配りながらガラス扉に近づき、店内をそっと覗く。男がアップライトピアノを弾いていた。壁の間接照明に照らされる白いシャツに黒のベスト、蝶ネクタイも付けたままの格好。彼はスタッフだろうか?少なくとも店長と思しき年齢には達していないように見える。

いったいどういったシチュエーションなのだろう?アルバイト先の喫茶店で、閉店後にピアノの練習?はたまた、興味本位でピアノに触れただけ?ジムノペディはそう難しい曲ではない。しかし、それにしては彼の奏でる音には水のように自然な繊細さがあり、わたしはその場でしばらく聴き惚れてしまう。

彼にも夢があるだろうか、その夢が叶うことを願う。けれど、それは叶わないと知っている上で繕った、慰めにも似た願いかもしれない。音楽の世界は狭き門だ。けれど、彼の音を聴きながら、音楽はただそれだけで完成されたものだと知る。

月明かりの下でグランドピアノを弾く男を想像する。それはとても美しい光景だった。

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テーマ「ピアノ」

2017.4.23